きっかけは、ママチャリでの遠乗りだった
その日は特段の用事もなかったので、とりあえず食料品を調達しようと、近場のスーパーまでママチャリで出かけた。しかし、あまりの天気のよさに、買い物は後に回して、T駅まで行ってみようと思いついた。T駅は近隣で最大の駅だが、ちょうど全面リニューアルされ、大規模な駅ビルがオープンしたばかりだったので、ちょっと覗いてみたくなったのだ。
だが、ここで迷いが出る。T駅は、ママチャリで行くには少々遠いのだ。日頃から利用している最寄りの駅から3駅も先にあり、自宅からだと距離が7kmほどもある。往復なら14km。おまけに、このルートにはアップダウンが多い。
我が家のママチャリには内装3段の変速機が付いているので、多少の坂道なら登れる。が、ママチャリというやつはとにかく重い。ご存知かもしれないが、総重量が20kgを超すものも珍しくないのだ。しかも、タイヤも太くて重いので、スピードが出ない。あくまでも、チョイ乗り専用のお買い物自転車という位置づけである。
さて、これで14km走れ、と言われたらどうするか? おそらく、「無理」と答える人がほとんどだろう。ママチャリには、そんな挑戦を無謀と思わせるだけの鈍重さがあり、多くの人はそのことを体験的に理解しているのだ。
このときの自分も、まずママチャリの鈍重さへの懸念が沸き起こった。加えて、最近は極度の運動不足。帰りが大変になるのは目に見えている...けれど、天気はこんなにいいし、まだ日は十分に高い。それに、やっぱり駅ビルは見てみたい。さんざん迷った挙句...行くことに決めた。
あれ、こんなところにそんな店あったっけ?
想像以上の激しいアップダウンの連続に苦労しながらも、なんとか先へ進む。たまにクルマで通る道なので、ある程度は見慣れた景色であるはずなのだが、自転車だと感じ方がまったく違う。たぶん、クルマの速度では見過ごしていたものが、自転車だとはっきり見えてくるからだろう。
知らない街を訪れた異邦人のような心持ちで、周囲を見回しながらゆっくり走り続けていると、横道の奥手にケーキ屋を発見。おっと、こんなところにケーキ屋が? それも、ロールケーキ専門店、とある。
おお珍しい、これは買うしかない、とばかりに入店する。どのロールケーキも美味しそうだったが、無難に、売れ筋No.1だというイチゴロールを購入。当時は帰宅時間の予測がつかなかったので、たっぷりと保冷剤を付けてもらってテイクアウトした。
さらにペダルを漕ぎ続けて、目的地のT駅に到着。予想通り、オープンしたての駅ビルは大きくて広く、たくさんの新しい店でいっぱいだった・・・が、ひととおり回るとすぐまたママチャリに戻ってしまった。このときにはもう、自転車に乗ること自体のほうがずっと楽しくなっていたからだ。
帰り道は、さらなる発見の連続だった
帰りは、行きとは少し違う道を走ってみた。T駅から自宅寄りに1駅戻った辺りで、英国旗をあしらった小さな店看板が見えてくる。近寄ってみると、どうやら紅茶専門の喫茶店らしい。
とりたてて急ぐ必要もなく、けっこう走って喉も乾いていたので、ティーブレイクにしようと入店。店主イチ押しのロイヤルミルクティーを注文したところ、これが超美味しくてびっくり。正直言って、こんな田舎でこれほど本格的な紅茶が飲めるとは思わなかった。スコーンを追加注文すると、店主がセット扱いにしてくれた。なんという親切。これはリピート確定であろう。
そんな驚きの喫茶店から出た後、さらにもう1駅戻った辺りで、今度は和菓子屋を発見。店の名前が、近場のショッピングモール内にある有名店と同じである。
どうやら、ここはその有名店の本店のようだ。さっそく覗いてみる。ロールケーキを買ったばかりだったので大いに迷ったが、結局ここでも豆大福を購入してしまった。特に甘党というわけでもないが、甘い物はふつうに好きなので、仕方がない。
最初にT駅行きを決めた場所まで戻り、後回しにしていた買い物を済ませてから帰宅。すでに日が傾いていたが、季節柄、まだ明るさは十分に残っていた。14kmの道のりはたしかに大変で身体的には疲れたものの、いい1日を過ごせたという精神的な充足感が得られたのは収穫だった。自転車での移動がこれほど楽しいと思ったのは、覚えている限りでは、中学時代以来だろう。
そして今、自転車は生活の一部となった
その日以来、生活が一変した。以前は、クルマを使ってやっていた食料品の買い出しや生活用品の調達などの用事を、ほとんどすべてママチャリでするようになったのだ。肉が安く、野菜もそこそこ新鮮な隣町の大型スーパーも、以前なら完全にママチャリ圏外の遠い場所だったのだが、乗り慣れてからは近いとさえ感じ、週に何度も通うようになった。
おかげで、脚の筋力や心肺機能も改善したらしく、駅の階段も若い頃のように2段跳びで登れるようになった。さらに、クルマに乗らなくなった分、ガソリン代も大幅に減少。まさにいいことずくめである。
自転車との関わり合いは、それだけでは終わらなかった。ママチャリによる行動範囲の拡大には目を見張るものがあったが、それでもやはりママチャリはママチャリ。日を追うごとに、さらに速く、さらに遠く、という欲求が自身の中で高まり続け、結果として行き着いたのが「ロードバイク」だった。
大して調べもせずに自転車店に行き、半ば衝動買いのようにして新しいロードバイクを入手。もちろん、そのスペックや機能はママチャリとは段違いで、これに乗れば確実に速く、遠くに行ける。今では、ほぼ毎週末、近場のサイクリングロードを辿って60km〜90kmの距離を走るようになった。
こうして今は、平日はママチャリ、週末はロードバイクという、まさに自転車三昧ともいうべき生活を送っている。
思えば、生活がここまで変わるきっかけとなったのはママチャリでの遠乗りであり、その始まりは「やってみるか」という、ほとんど偶然の小さな決断に過ぎなかった。しかし、結果論にはなるが、その決断を無視せず大切にしたことが、大きな変化を生むことにつながった。
当初は「できない」と思っていたことが「できる」に変わっただけでなく、「できる」ことがもっと増えたのだ。この経験から私は、ふだんから自分の心の動きに十分な注意を払うことの重要性に気付かされた。
己の人生、漫然と過ごしていてはいけないということだ。ここでふと、「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」(©チコちゃん5さい)という決めゼリフが心に浮かんだ。けだし金言である。
末筆になりましたが、できるシリーズ25周年、本当におめでとうございます。今後も、よりいっそうのご発展を祈っております。
自転車への興味が募り、ついにロードバイクまで入手。安物ながらよく走る。この日は往復88kmを走破した。
吉川明広(よしかわ あきひろ)
岐阜出身のフリーエディター。IT分野を対象に書籍や雑誌の執筆・編集を手がけている。どんな難解な技術も中学3年生が理解できる言葉で表現することが目標。元国土交通省航空保安大学校講師。元お茶の水女子大学講師。趣味は樹木ウォッチング、ウクレレ、ロードバイク、登山。
主な「できるシリーズ」の著書