1987年の暮れ、映画館に赴いた。確か新宿だったような記憶がある。映画を見るのは久しぶりだったが「私をスキーに連れてって」(わたスキ)を見た。ホイチョイ・プロダクション原作の馬場康夫監督作品、原田知世が主演の映画だった。ホイチョイムービー3部作の第一作として知られる作品だ。のちにVHSのレンタルから始まり、セルのレーザーディスク、DVD、BDを全部購入、いったい何度、この映画を見たことか...。1988年春にはレーザーディスクが発売され、すぐに購入したような気がするが、誰かからの借り物をずっと手元に置いていただけかもしれない。もはや記憶があやふやだ。

高校生の頃に少し剣道をかじったものの、それ以来、スポーツにはほとんど無縁で過ごしてきた。見るのもプレイするのもだ。でも「わたスキ」を見てちょっとうらやましい気持ちになった。

1985年に日本で電気通信事業法が改正された結果、日本電信電話公社が日本電信電話株式会社(NTT)として民営化され、インターネット前夜の各社パソコン通信サービスがサービスインしたが、そこで知り合った仲間たちから誘われ、翌年のスキーデビューを決めたのが1988年の秋だ。1987年の暮れに映画を見て、1988年はディスクを繰り返し見て、その年の秋に翌1989年のスキーデビューを決めるというタイムラインになる。

翌年、元号は昭和から平成に変わった。初めてのゲレンデは1988年1月29日の車山高原だったから平成の歴史は自分のスキー歴そのものだ。1月28日の夜に当時アスキー編集長だった遠藤諭さんの結婚パーティがあって、それに出て自宅に戻り、翌早朝に出発した。パソコン通信仲間とのスキーは2月の予定だったが、その前にコソ練しておこうと、別の仲間と向かうという悪あがきだ。

パソコンとインターネットがなかったら思い出すのが無理なくらいに昔の話

初めてのスキーは平成元年に始めたことになる。だから、スキー歴何年かは数えやすかった。見事にスキーにはまってしまったぼくは、その年の4月26日の新潟県魚沼の奥只見を滑って最初のシーズンを終えた。滑走日数は30日だった。

その年の秋には長野市内に部屋を探して借り、仕事をしながらスキーができる体制を整えた。このシーズンは5月22日の中央アルプス千畳敷カールでのスキーを最後に滑走日数は73日だった。実に2ヶ月以上に達する。あとにも先にも、この生涯、もっとも多く雪の上にいたのが1988~89シーズンだった。

スキーは、今もシーズン中に数日間はゲレンデに出ている。コロナ禍当時も行くだけは行ってマスクをつけて滑走した。顔が暖かくてちょうどいい。今、これを書いている2024年は平成36年に相当する。この春は3月10日の志賀高原でシーズンを終えた。今年の滑走日数は9日間で、例年よりちょっと多い。

できるシリーズは30周年を迎えたそうだ。1993年にシリーズ一冊目が刊行されたという。ぼくがスキーを始めてから5年後だ。もっとも最初にかかわらせてもらった「できるインターネット」の初版は1996年だったはずなので、もう少しあとになってのことだ。

長野の仕事場での作業は今でいうところのテレワークだった。インターネットとの常時接続をOCN経由でかなえ、東京の自宅とはインターネット経由で接続した。普通にLANのように2つの拠点が接続できていた。何冊かのできるシリーズをそこを拠点に書いたがずっとあとの話だ。

どっちにしても長野にいても、仕事についてはほぼ不自由しなかった。もっとも不自由はないと思っているのは自分だけで、東京の編集者はイライラしながら原稿を待っていたかもしれない。東京で作業していたって編集部まで原稿を持って行くわけではないのだから同じはずだが、待つ側はそうでもないらしい。ほおっておくとゲレンデに出てしまう懸念があるのだから、今となっては申し訳ない気持ちもあったりする。

パソコンも、スキー、インターネット、そして書くこと。どれも長いつきあいだ。どれもが微妙につながってもいる。30年続ければ全部長い。でも、つきあいはきっとまだまだ続く。この先もよろしくどうぞ。


山田祥平(やまだ しょうへい)

独特の語り口で、パソコン関連記事を各紙誌や「PC Watch」(Impress Watch)などのWebメディアに寄稿。パソコンに限らず、スマートフォンやタブレットといったモバイル機器についても精力的に執筆しており、スマートライフの浸透のために、さまざまなクリエイティブ活動を行っている。

「できる」シリーズの著書

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